蒲苅橋について、

呉の宮原11丁目に 蒲苅橋ってぇのがありまして、
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「何で ココに?」と 以前 仲間内で話題になった時の事
面白かったので 今日は この話を~。

たまたま 地図で見つけ
住民としては 何か関わりがあるのではないかと 思うのも当然のこと。
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色々 憶測の飛び交う中
一人の友人が 有力な情報を入手。
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その昔 蒲刈からも たくさんお人たちが
呉工廠に 働きに出たたそうで
当時 通勤には 長浜まで 船で渡り
そこから 路面電車に乗って通勤してってな話。

それも 大変なので 大勢の人が
この地区に 移住してきたってな事実があるそうで・・・。

その関係で 蒲苅橋ができたのでわ?と・・・。

まあ そんなことはあるなぁ とも思ったけど
もう一つ はっきりしない・・・・。

そんな中 もうひとりの友人が
きっちり調べてきたのが 以下の文、

蒲刈橋について

○宮原道路事情

 明治22年(1889)7月に開庁した呉鎮守府の設置は、これまでの
生活を大きく変えていった。人口の動態をみても明治19年(あ1886)
まで1万5000人前後で推移してきた人口は、良く20年の1万8450
人までになり、24年には2万3312人と急上昇する。
なかでも、明治19年には宮原村の人口が激減し、和庄村と吉浦村(川
原石・両城地区)のそれが増加している。全国から呉浦に人口が流入した
ことに加え、宮原村の呉町にあたる部分を中心とする約77町歩が海軍用
地に買収され、1023戸の住民が翌年8月15日を期して立退を命じら
れたことによる。これらのことは道路にも大きな影響を与えている。即ち
鎮守府の工事で、和庄村から宮原村をへて警固屋村にいたる道路のうち
宮原村の部分が中断されたのである。そこでこれに代わる道路として、警
固屋村字瀬の向から鍋峠を越えて宮原村の山腹を迂回し、和庄村明法寺下
にいたる新道が計画され、明治20年に開通している。2

蒲刈橋事情 (古老の話から)

①この橋は、海軍工廠華やかなりし頃、延橋・大入方面から山を越えて
早朝5時頃からたくさんの人が通ってきていた。
② (蒲苅橋の「蒲」は「鎌」の誤りです)との指摘がある。確かに戦前
に作成された地図には、橋の上あたり一帯に「鎌苅山」と記載されてい
るものがある。昭和20年代の中頃、木の橋からかけかえた時、うっかり
間違えたらしい。3

参考資料
1呉の歩み 呉市役所 平成元年3月発行
呉市史 第5巻
3昭和52年2月20日 中国新聞

つまり 勘違いで なんも関係が無かったてなオチ・・・。

まあ そんな感じですよね?
「刈」の字も違うし・・・・。
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楽しい ひと時だったと思うし 事実を知らないままも良かったかな?とも思うし・・・。