もう一つの「かまがり橋」の話、

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8年前の事、
とある方が 呉市の地図を片手に
「こんなの あるけど 知ってる?」って
提示されたのが 宮原の「蒲刈橋」。

当然 そんなの初耳ね。

そんなの聞いたら 興味が湧きますよね、
蒲刈と関係があるのか 見てみたくなりますよね。

ただ 当時は なかなか時間が取れず・・・・。

っで 行ったのが その2年後、
初めての土地なんで 迷子になりながらも
なんとか見つけて 写真を撮って
何か イワレを書いたものが 周りを探しても見つからず
ワザワザ 近所の住民に聞くのも・・・・。

諦めて帰ってからは 友達と色々想像の会議、
呉工廠の時代 蒲刈から働きに行ってた人が多かったから
移住してた場所じゃぁないかって話も。

そしたら 友達が調べてきたのが こんな記事、
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蒲刈橋について

○宮原道路事情

 明治22年(1889)7月に開庁した呉鎮守府の設置は、これまでの
生活を大きく変えていった。人口の動態をみても明治19年(1886)
まで1万5000人前後で推移してきた人口は、翌20年の1万8450
人までになり、24年には2万3312人と急上昇する。
なかでも、明治19年には宮原村の人口が激減し、和庄村と吉浦村(川
原石・両城地区)のそれが増加している。全国から呉浦に人口が流入した
ことに加え、宮原村の呉町にあたる部分を中心とする約77町歩が海軍用
地に買収され、1023戸の住民が翌年8月15日を期して立退を命じら
れたことによる。これらのことは道路にも大きな影響を与えている。即ち
鎮守府の工事で、和庄村から宮原村をへて警固屋村にいたる道路のうち
宮原村の部分が中断されたのである。そこでこれに代わる道路として、警
固屋村字瀬の向から鍋峠を越えて宮原村の山腹を迂回し、和庄村明法寺下
にいたる新道が計画され、明治20年に開通している。2

蒲刈橋事情 (古老の話から)

①この橋は、海軍工廠華やかなりし頃、延橋・大入方面から山を越えて
早朝5時頃からたくさんの人が通ってきていた。
② (蒲苅橋の「蒲」は「鎌」の誤りです)との指摘がある。確かに戦前
に作成された地図には、橋の上あたり一帯に「鎌苅山」と記載されてい
るものがある。昭和20年代の中頃、木の橋からかけかえた時、うっかり
間違えたらしい。3

参考資料
1呉の歩み 呉市役所 平成元年3月発行
呉市史 第5巻
3昭和52年2月20日 中国新聞
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・・・・うっかり間違えたって・・・・・?

まるで 新喜劇のようなオチでした~。

ってな話~。