歴史 探訪

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reaさんブログに 下蒲刈で行われた[朝鮮通信使]イベントがあったので
今日は[朝鮮通信使]のネタを~~。

今回の行事は 下蒲刈の三ノ瀬が朝鮮通信使の寄港地だったので
それの再現した行事ですが
「そもそも 朝鮮通信使ってなんぞや?」って方に解説を~~。

朝鮮使節団が日本に来たのは 12回、
最初の3回は[回礼兼刷還使]といい、あと9回[通信使]と言います。

回礼は
秀吉が朝鮮を侵略した戦後処理で 日本からの使いに対する回礼。
刷還使は
連れて来た人を 朝鮮に連れて帰るという意味です。

後の通信使は
朝鮮王朝の即位とか 徳川将軍の代替わりの時 お祝いに来ておりました。
ちなみに
釜山には倭館があって 日本人5・600人が常駐してたそうで・・・。

戦をした朝鮮と友好関係にできたのは
対馬藩 宗義智(よしとし)が仲介に頑張ったから・・・・。

秀吉が 大陸侵略を考えてたとき 義智は戦争回避のため外交工作をしたけど挫折。
侵略が始まると 秀吉軍の先兵を命じられる。
っが、秀吉の死とともに終結
今度は 徳川家康に 国交回復の交渉役を命じられる。
義智の7年間の努力により 1607年 最初の使節を迎える。

興味あるのは
義智が 家康⇔朝鮮王朝の手紙を 偽装・改ざんしてたこと。
朝鮮側からみれば 迷惑させられたんで 謝ってもらわないと治まらないわけで。
でも 家康が謝るだろうか・・・?と疑問になったんだろうと・・・。
っで、
勝手に手紙を描いて国書として 謝罪の文面を入れ朝鮮に送ったんですね。

そして やってきたのが1回目の使節団なんです。
その使節団が持ってた手紙に[奉復]って・・・・。
[奉復]って「日本の国書の返事]って意味だから 家康には見せられないわけですよ。
そこで[奉復]を[奉書]と書き換えるるんですね。

朝鮮の事情も知ってたから 両国の間に立つ苦悩も思い浮かびます。

っと、
細かく話すと やたら長い話しになるんで 大まかなところで。

あっ、
蒲刈そっち除けで 対馬の話しになりましたが歴史って事で・・・。

ちなみに 朝鮮通信使が立ち寄った港を~!

対馬・府中、壱岐・勝本浦、筑前・藍島、長門赤間関、周防・上関
安芸・蒲刈、備後・鞆浦、備前牛窓、播磨・室津、摂津・兵庫、摂津・大阪

陸行は 興味あらば・・・?